第12話「悲しみは果てぬ」

第12話「悲しみは果てぬ」

2023年10月25日

私が18歳の時に突然「パグ」が欲しいと言い出した姉。

家からそう程遠くないペットショップに二人で見に行くと、そこにはパグではないが、とても可愛い顔をした生まれたばかりの子犬が小刻みに震えていた。
何かに怯えているのか、寒いのか、その震える子犬をほっとけなくなった我々は、この子を連れて帰る事にした。
後で知ったのだが、そのペットショップは、かなりの悪徳業者で動物達を劣悪な環境で育てていたそうだ。

そうしてやってきた子犬は「ちょび」と名付けられ、最初のうちこそ「クンクン」と不安気に鳴いていたが、癖は強いが心暖かい家族に可愛がられ、すくすくと育っていった。
歯が生え変わる頃には、私が可愛がっていた石亀の「タートルくん」を噛んで死なせてしまい、数ヶ月絶縁状態に陥ったこともある。
そして、犬の癖に散歩が大嫌いで我が家の敷地の外は一歩も歩かない。

その代わり、小型犬の彼にとっては広過ぎる庭を探検するのが大好きで、夜中の2時に「アウアウーン」と何とも情けない声で鳴いては庭に出してもらい、排便を兼ねた探索が日課だった。

そして、兎に角、人に触られるのが大好きだった。

出来れば四六時中誰かに触って欲しがっていた。

そして、彼の最大の特徴は、自分のウ◯コをよく食べる事であった。

我が母が「あまり太るとカッコ悪いから」という理由で餌を少なめに与えていたせいで腹が減っていたのだろうか、100%という確率で自分のしたウ◯コを食べていた。これはもうSDGSの先駆けと言っても過言ではない犬である。
余談だか、犬の背格好を気にして少なめに餌を与えていた母は常に食べ過ぎ日々醜くなる自分の背格好に絶望していた。

そんな母も、ちょびのその奇行とも取れる癖をやめさせたいと、獣医さんに相談したところ「体重は規定の体重だから餌を与えな過ぎるという事は無いと思うが、少し餌を多くしてみたら」という当たり前の診断を受けて、餌を多く与えてみたが、彼はウ◯コを食う事をやめなかった。

そう、彼は単純にウ◯コを食うのが好きな犬だったのだ。そして、彼はウ◯コを食った口で人の顔をペロペロと舐めるのも大好きだった。

そんな彼もいつしか年を取り、ウ◯コを食う事をやめた。正確に言うと食べられなくなったのだ。  


老いである。

私が前座修行の真っ只中「ちょびがそろそろ危ない」と母親から連絡があり私は東京の寄席で働いた後、湘南新宿ラインに飛び乗り、ちょびを触ってあげた。

庭を探検する事も大好きな餌もウ◯コも食べられなくなっていたが、人に触られるのは大好きらしく、いつまでも触って欲し気にこちらを見ていたが、次の日も寄席の仕事があった私は、始発の湘南新宿ラインに飛び乗り東京に戻った。
寄席終わりで群馬、始発で東京、という生活を二週間程過ごしていると母から「恐らく今日には、ちょびが死んでしまう」という連絡が入った。

その日、寄席が終わり私が飛び乗ったのは、いつもの湘南新宿ラインではなく、新幹線だった。

文明の力のお陰もあり、いつもより早く家に着くと、ちょびは昏睡状態だったにも関わらず「おー、来たか。待ってたよ。」と言わんばかりに億劫そうにこちらに目だけを動かし、痩せこけた尻尾を2回振ってくれた。
その姿は素人目に見ても「今夜が山だ」という事は明らかだった。

ならば今夜は、一睡もせずにちょびを抱いて看取ってあげようと、心に決め、今や老犬となった彼が痛く無いように膝の上に優しく抱き上げた。

しかし、私はその次の日、根多おろしの会があった為、死にかけのちょびを抱きしめながら、くだらない落語を口づさんでいた。
そして、噺が終わるごとに、ちょびに「愛しているよ。家に来てくれてありがとう。」と伝え、またくだらない落語を口づさんだ。
これを数時間続けた頃、自分が何も食べていない事に気づいた私は、まだ息のあった、ちょびを彼が子どもの頃から愛用しているベッドに寝かして、何かつまめるものは無いかとキッチンに向かい冷蔵庫を開けた。

するとそこには、タコのぶつ切りがあった。 

何故、そのタイミング、そのシュチュエーションで冷蔵庫にタコのぶつ切りがあったのか、そして何故ソレを選んでしまったのか、甚だ疑問ではあるが、その時の私はタコのぶつ切りを「クッチャクチャ」と食べ始めた。

急いで、ちょびの元へ戻らねばと思いつつもタコのぶつ切りの弾力は侮れず、すぐに飲み事は出来ない。私は、なおも「クッチャクチャ」と咀嚼し続けた。
何度目の咀嚼音の後だろうか。。
微かに「クゥン」とちょびの声が聞こえた気がして、常人ならまだ喉を通す事の出来ないサイズのタコを、喉を痛める覚悟で「ゴクン」と飲み込み、急いでちょびの元へ向かった。


すると彼は死んでいた。。
こともあろうに、私が「クッチャクチャ」とタコを咀嚼している間に彼は死んだのだ。

私はその日だけは一睡もせずに彼を抱きしめ「愛しているよ」と言葉をかけて送ってあげようと心に決めていたし、きっと彼もそうやって見送って貰えるんだろうなと期待して、新幹線で駆けつける私を必死に待っていたのだろうが、彼が最後に聞いた言葉は「愛してるよ」や「家に来てくれてありがとう」などの愛や感謝の言葉ではなく、おじさんが「クッチャクチャ」とタコを咀嚼する音だったのだ。

なんともいたたまれない結果となってしまったがその寝顔は実に穏やかなどというものではなく「コイツ、マジかよ」という本当にそういう表情をしていた為、悲しくて仕方がないはずなのに、逆にこちらが笑わされてしまった。 

その後、ちいちゃい身体のちょびは、もっとちぃちゃな骨になり、そのお骨はちょびが良く探検していた庭に埋める事になった。
そして、今まで気にかけたことの無い、庭の一角は私にとって大切な場所になり、春になるとその場所に、名も知らない、ちいちゃな花が咲く事も知った。

その花がちょびが埋められる前から咲いていたのか、ちょびが埋められてから咲くようになったのかは知らないが、ちょびがそこに埋められてからその花の存在を知ったのだ。

こうして、15年の生涯に幕を閉じた、ちょび。。


あれから5年。

私は今もちょびの事を思うと涙を流してしまう夜もあるし、この悲しみを、あの時、昏睡状態のちょびが聞いたようなくだらない噺に変えることしか出来ない。

そんな私が忘れられない、ちょびと祖母のエピソードを最後に紹介してこのお話は終わりにしようと思う。

悪徳業者に育てられたせいか、ちょびは色々な箇所に病気を持っていた。

よって月に一度は病院に通い、獣医さんがオススメするなかなかお高いドッグフードを食べることになった。

 そのドッグフードの値段を聞いた祖母は驚愕し、「人間様より良い物を食っている」と過激な動物愛護員なら決して聞き逃せない発言をし、高級ドッグフードを貪るちょびに「私が子どもの頃は大東亜戦争てのがあってねえ。。食べるもんもロクに食えなかったんだよ。」と先の大戦の苦労話をこんこんとしていた。

そんな祖母を横目にご飯を食べて腸が活発になった、ちょびはモリモリとウ◯コをし、いつものように、パクパクとウ◯コを食べた。
 その姿を見た祖母は「あたしの時代でもここまではしなかった」とちょびの食への執着心には、戦果を生き抜いた彼女でさえお手上げという風であった。。

という訳で、今回は私の中に今もある。とっても可愛くて、ちょっぴり臭い、大切な宝物のお話をお送りしました。

お付き合いありがとうございました。 


 おわり

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