第4話~第6話


第6話 「しわくちゃ大作戦」

更新日:2021年3月2日

 前回、深夜の如何わしいテレビ番組を観たいが為に、偽りの反抗期を演じ、家族旅行にも行かず、ヌンチャクの「ヌン」を振り回して黒電話を破壊し、結果的に村で一番早くデジタル電話に変えて「子持村文明開化事件」を起こすなど、我が家の様々な事件に携わり、我が家を支えてくれた祖母のお話をしたが、今回はそんな祖母へ、群馬で仕事があり実家に帰る為、恩返しをしようと思い、東京のデパ地下へと赴いた時のお話をしようと思う。

 お菓子が好きな祖母は以前私が実家に帰る際、買って行った、とある和菓子屋のお菓子をご近所のオギワラさんという、仲良しのおばあちゃんに我が家の縁側で「孫が東京から買って来た珍しいお菓子だよ。アタシら群馬の人間は普通に生きていたら、とても食べられないよ。」とネット注文という存在を知らない老婆は、ご近所の老婆に群馬から遥か離れた都、東京の土産を自慢して、そのお菓子を僅かばかりだがお裾分けしていた。

あの時の私は噺家の世界に入ったばかりの前座見習いという身分でお金が無く、僅かな和菓子詰め合わせしか買えなかったが、今は二ツ目、これでも何とか日々を生きられる銭は持ち合わせている為、今回はオギワラさん始め、ご近所の方にも大手を振ってお裾分けして貰おうと、その予算を上げた私はお土産の品を買う店も既に決め、デパ地下内を練り歩いていた。目的の店に向かっていると、他の店舗の若い女性店員さんが満面の笑みを浮かべ「お土産に如何ですかー?」と懸命に働く、その営業努力に心は傾きかけたが、僕はこの日のお土産は心に決めていた。

それは大切な、ばあちゃんに送る品物である。

都から遠く離れた田舎のばあちゃんでも、オギワラさんでも誰もが皆、一度は耳にしたことがあるであろう某有名羊羹店、ここでは故あって、仮に「タイガー屋」とさせて頂く。

ばあちゃんがオギワラさん始め近所の人に大手を振って鼻高々に配れるように、その「タイガー屋」の羊羹を大量に買っていけば、ばあちゃんもさぞ喜び、92歳になりもうこれ以上「しわ」の増える場所がない、ばあちゃんの「幸せじわ」をまた増やしてやろうと、ばあちゃんの「しわくちゃ」な顔を思い浮かべながらその店のショーケースを覗き込みその金額を見ると、思い浮かべたばあちゃんの「幸せじわ」は一瞬にして消え、私の眉間に深い深い「しわ」を寄せた。その値段というのが「羊羹て小豆と寒天と砂糖だよな?」とつい内容量を考えてしまう様な値段設定であった。しかし、そこは天下の老舗銘菓店 タイガー屋である。

古より、冠婚葬祭や、政治家への賄賂などに使われて来たであろう高級店、そんな値段設定は当たり前。むしろ、それを分かっていたからこそ、あの若い女性店員さんが喉を枯らしながら懸命に販売しているお菓子屋さんを横目に、ここへ来たのだ。今さら値段に慄いている場合ではない。「しかし!砂糖と寒天と小豆!」などと葛藤を繰り返し、羊羹の飾られたショーケースの前で立ち尽くすこと数分。黒人のお金の無い子どもがトランペットの飾られたショーケースの前で毎日毎日張り付いて眺めるあの姿を彷彿させたであろう私に、一人の女性店員が、これまた眉間に「しわ」を寄せ怪訝そうにやって来た。恐らく私が数分間、ショーケースの前で哀愁の黒人の子どもを彷彿させたせいであろう。

簡単に言うと私は怪しまれたのだ。

怪しまれた事を察知した私はその値段が想像の上を行こうとも「武士は食わねど高楊枝」の精神で、その店の中でも三番目に高い18本入りの羊羹の詰め合わせが欲しいと出来るだけ爽やかにそして堂々と伝えた。すると次の瞬間、彼女は「冠婚葬祭?」と主語もなく、ただただぶっきら棒に「冠婚葬祭」と名詞だけを吐いてくるではないか。

本来なら噺家の端くれとして「いや、ばあちゃん92歳ですけどまだ死んでないんで。冠婚葬祭はもうちょいと待って下さいな。」とボキャブラリーを駆使して突っ込んであげるべきだが、老舗中の老舗と言われたこの店で突然名詞だけ突き付けられる斬新な接客に出くわすとは思っていなかった為、思考がストップしていると、さらに彼女は「熨斗は?」とまたもやぶっきら棒に名詞だけを投げかけてきた。

その変わらぬぶっきら棒なトーンと名詞だけのセリフ、彼女の冷徹な表情に一瞬私は「あれ?最新型のロボットかな?流石、業界一の老舗!いち早くロボット導入したのかな?」と非現実的空想にふけり溜飲を下げようと思ったが、周りの店員さんは人間らしい笑顔を見せしっかりと接客をしていたし、何よりそのおばさんの冷徹な表情は現代のロボット技術では到底表す事は出来ないであろう、間違いなく彼女は人間である。と認識した私は一瞬、私の中の「喜怒哀楽スロット」の「怒」が三つ揃いそうになった。

しかし、まあその態度の悪さは普段の疲れや、私自身ショーケースの前で数分間悩み、不信感を与えたせいだと思い「喜怒哀楽スロット」は「怒」「怒」「哀」となり「怒りのフィーバー」を避ける事に成功し、全力の作り笑顔を浮かべ「熨斗紙はいりません」と爽やかに伝えると彼女はまたその表情とトーンを一切変えずに「あー、土産ね」と言ったではないか。これはもうダメである。当然私の「喜怒哀楽スロット」も「怒」「怒」「怒」と見事に「怒りの大フィーバー!大当たり状態」となってしまい、こっちもさっきまで猫を被っていたが、そちらがどうしても牙を納めないのなら、こちらも虎になるしかないと怒りの牙を剥くことにした。(お店の名前とは何ら関係ありません)

僕は支払いを済ませた上で、ゴミ箱を持って来させ、そのおばさんの目の前で「貴様から買った物など大切な老婆に食わせられるか!」と怒鳴り散らし、羊羹を全部捨ててやろうか、伊達に母カズコ(エッセイ2話 怒りのカズコー参照)のDNAが濃く流れ、幼い頃から怒り方が「ハルクホーガンと同じ」と友人に言われてきた私の本気の怒り方を見せてやろうかと思ったが、日々色んな方のお世話になり生きながらえている身の上の為、そこはグッと怒りの牙を抑え、彼女に聞こえる様に「もう買うのやめよう」と甘噛み程度に怒りを口にした途端、彼女は一瞬「はっ」とした顔を見せたかと思うと「雨が降ってるので紙袋にビニールしておきますね」と先程までとは打って変わった甲高い声を出し、ニッコリ笑い始めたではないか。

いや、ちょっと待って頂きたい。

こちらが如何なる態度をしたとしても、最後までタイガーとしての誇りを失わないで頂きたい。この店の品を田舎から出てきた私が祖母へのプレゼントをするのに相応しくないというのであれば、最後までその意思を貫き通し、牙を剥き続けて頂きたい。私も「もう買うのやめようかな」と言った言葉は飲み込まない。

仮に僕がタイガー屋の店先でそんな言葉を吐いて店員さんに嫌がらせをしていると、落語会にいらっしゃるお客様に聞かれ、勘違いされたら確実に嫌われてしまうだろう。しかし、私も噺家の端くれ、言葉を使って生きているのだ。吐いた言葉は飲み込まない、それどころか、領収書の名を書く際に、メモ用紙に名前を書いてくれと言われ、一瞬、ためらいはしたが、師匠から頂いた「三遊亭ぐんま」という些か恥ずかしい名前を堂々と書き殴ってやった。

そうして羊羹の入った紙袋を受け取るも、こんな嫌な気持ちで買った物を、大切なばあちゃんに食べさせたくないと思い、冒頭で申し上げた若い女性店員さんが声を張り上げ一生懸命お仕事していたお店に戻り、タイガー屋と似た様な羊羹の詰め合わせを注文すると彼女は真っ直ぐな笑顔と声で「ありがとうございます!」と言ってくれた。そんな彼女に「最初からあなたにすれば良かった」と微笑みながら本音を漏らすと、何の事情も知らない彼女からもまた若干の不審者扱いを受け、無駄に羊羹の箱詰め二つを下げた私は、池袋駅3番線ホームから群馬県高崎駅へ向かう湘南新宿ラインへと乗り込んだ。

そしてどうしても、ばあちゃんにタイガー屋の羊羹を食べさせたくなかった私は、食べ物を捨てるのも忍びないので「これも自分がタイガー屋に相応しくない人間だったせい。またタイガー屋に出入りするのに相応しい人間になれば良いだけの事」と、その気持ちと羊羹18本を一人で高崎駅に着くまでの二時間の間に腹に収めた為、急な糖分の取り過ぎで顔がパンパンに膨れ上がり、ただでさえ噺家の世界に入ってから10キロ太った私は変わり果てた姿で、久しぶりに実家に着くと家族からは「なんだお前?太り過ぎ!東京で良いものばっか食ってるんだろ?痩せろ!北の湖みたいになっちゃうぞ!」などと、とても家族の間柄だからというだけでは許されないない遠慮無い言葉の数々を浴びせられた。

そして、事の顛末を家族に話すと「そりゃアタシだってアンタが客で来たら、ちょっと。。てなるかも。DAIGOみたいに爽やかになればいい。爽やかじゃないアンタが悪い」と母の日本人の爽やか代表がタレントのDAIGOさんであるという事実と「アンタが悪い」と放った言葉を皮切りに、齢35歳にもなるが「俺は竹下総理の孫じゃねー!石井ゆわの孫」だと憤慨し、幼い頃に振り回していたあのヌンチャクの「ヌン」を押入れから探し出そうと二度目の反抗期を迎えたのも束の間。。ばあちゃんが「ぐんまが買って来てくれたよ」と羊羹の詰め合わせをオギワラさんでも、ご近所にでもなく、だいぶ先に逝ってしまった今はもう仏壇の中にいる、じいちゃんに手を合わせ、またそのシワを増やすような笑顔を見せながら自慢をし「リン」の音を「チーン」と鳴らしたところで、35歳、私の二度目の反抗期の炎も無事に鎮火した。。

それと共にこの度の任務「しわくちゃ大作戦」もこれまた無事に終了したのであった。

ちなみに、このエッセイの更新日である2021年3月2日は、この愛すべき老婆の93歳のお誕生日だそうだ。正直に申し上げて、私は、母カズコーから連絡が来るまで忘れていた。我ながら情けなくもあるが、無意識にこの日に、このお話を更新しようとしたのも不思議である。

まあ何はともあれ、今後も彼女の「しわ」を何本も、いや何十本も増やせるように「しわくちゃ大作戦」の任務は最前線で遂行していく。これにより生み出される笑いの戦果報告は、随時、また皆に報告するとしよう。


おわり


第5話 「子持村文明開化の巻」

更新日:2021年1月10日

私は母方の祖母と両親に三つ年の離れた姉と共に、群馬県子持村という山の中で育てられた。

小さい頃から、祖母が家にいてくれたお陰で両親が共働きでも家に独りぼっちになることも無かったし、寂しいと思うこともなかった。自分でいうのも何だが、何不自由なく育てられた。
ただ不満だってあった。それは一人になりたいという事である。

あれは確か小学五年生の時、クラスの男子の間で夜中二時に放送されていた、少しだけ如何わしいテレビ番組が話題に上がっていた。つまりグラマラスな女性タレントが僅かばかりの布を恥部に纏い、若手お笑い芸人がセクハラまがいの行為をして盛り上がるという低俗なエロ番組である。

ご両親があまり家にいないクラスメイトや少しヤンチャな兄がいるクラスメイトは、夜中二時に放送されたその低俗なテレビ番組を見てはクラスでその内容と感動を赤裸々に発表していた。

僕はあくまで人体への学術的見地から、そのテレビ番組に大変興味を持ったが、我が家は両親と姉と祖母がいる。とてもじゃないが夜中の二時に起きて如何わしい低俗なテレビ番組を見られる状況ではない。

しかし、そんな僕にもある時チャンスが訪れた。夏休みになると毎年、父方の実家がある横浜に両親と姉と僕で遊びに行くというビックイベントがあるのだ。しかもそのビッグイベントでは、久しぶりに会う父方の祖父母だからという特権を使い、好きな物を一人一つ買って貰る事になっていた。

僕はこのイベントを有効活用し、小学四年生の時には「ヌンチャク」を買って貰った。何故「ヌンチャク」が欲しかったかというと、私は幼き頃よりプロレスが大好きで「ザ・グレート・カブキ」というレスラーが入場時に両手に持ったヌンチャクを振り回すパフォーマンスをするのだが、その姿に憧れ、姉が「大丸」で高いゲームなどを買ってもらうなか、僕は横浜の大和市にあった剣道で使う竹刀など武道用具を取り揃えている「武道館」という店に行き「ヌンチャク」を買ってもらう事にした。

しかし、姉から「一人一つという約束なのに、お前だけヌンチャク二本はズルい」というクレームが入り、これに対し僕は「いやいや、ヌンチャクというのは二本で一つなのだ。ウッチャン ナンチャんが二人揃ってウッチャン ナンであるように、ヌンチャクもヌンだけでは成立しない、チャクがあって初めてヌンチャクとして成立するのだ。」と迎撃を試みたが、私より義務教育を三年多く受けている姉の真っ当な意見と祖父母の「出来れば安く済ませたい」という気持ちに押され「ヌンチャク」の「ヌン」の方だけ一本買って貰い、「チャク」の方は来年買って貰うという約束をして、小学四年生の一年間は「ヌンチャク」一本だけを振り回してザ・グレート・カブキになりきっていた。

そう。五年生であるその年の夏休みに祖父母のいる横浜に行けば「ヌンチャク」の「チャク」を買って貰えたのだ。しかし、僕は「チャク」を買ってもらう事よりもエロいテレビ番組を見る為に、祖父母の家には行かなかった。ただ行かないというだけでは、怪しまられるので、少し早い反抗期という設定を設け、それから数日は汚い言葉遣いをして家族に反抗しようとしたが、汚い言葉を使っている人などは、大好きなプロレスのヒールレスラーくらいしか知らないので、それを手本に「ガッデム!!ゲラアウト!!潰してみろって!!」など家族に頻繁に言い放ち、楽しみにしていたアニメも見ない、ハンバーグも食べず、子供らしいものは極力避けたり残し、自ら「渡る世間は鬼ばかり」の再放送を見たり、ピーマンやらセロリや春菊などほろ苦い物を食べ、手がつけられない反抗期を演出した。

そうして小学校五年生で早めの反抗期を迎えた私を残し、両親と姉は父の横浜の実家に行き、家には祖母と僕の二人きりになった。祖母が居るといえど、相手は老人。老人は早寝早起きが基本であり、いくら早起きといえど、夜中二時には起きまいと確信した僕は、見事に「華の女子大生ばりの誘惑いっぱいの夏の一夜」を手に入れ、如何わしいテレビ番組を見るべく、行動を開始した。まず我が家には茶の間の他にテレビがある部屋は父と母の部屋にしかなかったので「寂しいから、お母さん達の部屋で寝る」と反抗期ながらも幼心を持った幼反抗期を装い、父と母の部屋を占拠し、その時が来るのを静かに待ち続けた。

深夜二時、三分前からブラウン管テレビの前に座り、部屋の外に祖母がいないか神経を研ぎ澄まし、祖母がいない事を確信し、時計の針が二時になりテレビをつけた、その瞬間、襖が「スパンっ」と勢いよく開いたかと思うとそこには鬼の形相をした祖母が仁王立ちしており「婆ちゃんは全部お見通しー!!」と絶叫した。その早さといったら、ブラウン管テレビを見たことがある方ならお分かりだと思うが、テレビのスイッチをつけると立ち上がる前に「プツン」と黒い線が出るのだが、その「プツン」が出る瞬間、テレビが立ち上がる前に彼女は現れたのだ。

その後は「寝ぼけてテレビつけちゃった」とか「地震があった気がしたから横浜に行った皆が心配で速報を見ようと思った」など、ちくはぐながら、いたいけな嘘を付いたが「婆ちゃんは全部お見通しー!!」の言葉通り全てを見抜いた目をした祖母は「あたしゃあ、今日寝ずの番だよ!」と、祖父が死んだ時も「んー、ねむい」と言って誰よりも早く床につき、早々に線香の火を絶やした彼女は、僕がトイレに行く時も、僕が寝る母達の部屋と襖一枚隔てた床の間の大黒柱に寄りかかり、まるで「いくさ中」の勇猛な武士の様に、目を見開いて監視していた。

その後、何故彼女は音も無く気配を消し突如現れたのか考えていると、祖母がよく「戦争中は畑仕事中に飛んでくるB29から茂みに隠れ気配を消したもんだ。今はのんびり畑仕事が出来て幸せだ。」ということを話していた事を思い出し「だから婆ちゃんは気配を消せるのか。大変な時代に生きてきたんだな。」と感慨深くなったのと「次の朝、両親にこの事を告げ口されるんじゃないか」と心配にもなり一睡も出来なかった。

しかし、不安は的中し、次の日の朝、祖母は両親にこの事を伝えるべく、今や懐かしき黒いダイヤル電話で横浜の父の実家に電話をかけようとしていた。
それを見た僕は、家族に偽りの反抗期を演じてまでエロ番組を見ようとしたのがバレるのが嫌だったのか、祖母の戦時中の辛い思い出に同情したというのに裏切られた気持ちになったからなのか、事件を起こした犯人が「よく覚えていない」と吐く言葉通り、僕はその時の事は覚えておらず、ただ「発狂」した。ザ・グレート・カブキの姿に憧れて買って貰った「ヌンチャク」の「ヌン」を手に取り言葉にならぬ奇声を発しながら振りかざし、なんと、黒電話を破壊してしまったのだ。

その二日後、帰ってきた両親は、横浜の祖父母が僕へのお土産に「ヌンチャク」のもう一本「チャク」を買って持たせてくれようとしたらしいが、それを断り、その代わり横浜の大丸で、新しいデジタル電話を買って貰い帰ってきた。
これにより我が家には、我が集落の子持村で初のデジタル電話が導入され、横浜の祖父母から当時流行っていたポケベルを買って貰った姉は「お陰でポケベルが出来る。良くやった。」と黒電話ではポケベルが出来なかった為、僕の「発狂行為」を褒めてくれ、この事件を「子持村文明開化」とまで命名してくれた。

しかし、黒電話を破壊した僕は当然母親から説教された。そして父親からも「お前は間違っている。カブキは入場のパフォーマンスでヌンチャクを使うのであって、ヌンチャクを試合で使って攻撃はしない」と「お前も間違っている説教」をかましたあと「なんにせよ、新しい電話に変えられたんだからヌンチャクだけに一件落着」と読者の皆様は恐ろしいかもしれないが父はこう言い放ち、この件は本当に一件落着となった。まあそんな間違いだらけの家族のお陰で、ギリギリ人としての道を踏み外さずに済んだし、どんなに怒っても「ヌンチャク」は振り回すものではないとザ・グレート・カブキと父親に諭されやってこられたが、これを揺るがす出来事が最近の私に起きたということは、また別の機会にお話することにしよう。

おわり(つづく)


第4話 「ミステリーは突然に」

更新日:2020年9月3日

 私、三遊亭ぐんまは、2015年の9月に落語協会で入門を許されている30歳になる直前に師匠から入門を許され、東京に引っ越し、落語協会所属の噺家として修行がスタートした。

 そもそも30歳になるまで何をしていたかというと、故郷の群馬県でバンドを組み、中古のバンに乗って、全国のライブハウスを周り、演奏をして暮らしていた。
まあ簡単に言うと、家無し、金無し、その日暮らしの、自転車操業生活である。

そんな私を見かねた、ミュージシャン達が練習をする、知り合いの音楽スタジオのオーナーのご好意でスタジオの一室を月5000円で間借りさせて貰い暮らしていた。

そうやってまるで寄生虫の様に暮らすある日、音楽を封印して落語家になると決め、師匠から入門を許された後に「お前は噺をやり慣れていないからどんなネタでも構わないから落語を兎に角喋ってみなさい」と言われ、元々は古典落語が好きだった私は、何を思ったか、その間借りしているスタジオの一室で、「小言念仏」という落語の稽古を始めた。

「小言念仏」という、お噺は「南無阿弥」というお経を唱える事を毎朝の日課にしているおじいさんが、お経を唱えながら

「南無阿弥陀、南無阿弥陀、おい!子供起こさねえと学校遅れるぞ!」とか「南無阿弥陀、南無阿弥陀、おい!飯焦げてねーか?」とか、

お経の途中に朝ごはんの味噌汁の具を指示したり、家の者に小言を言ったりして、「念仏、つまり信心」に一切ない身が入らないという噺で、ひたすら念仏を唱えるリズムでボケながら進んでいく噺なのですが、非常に難しい噺(無論難しくない落語は無いが)と言われており、
何故、師匠から「何でもいいから稽古してみろ」言われ、数ある落語のなかから、駆け出しどころか噺家として例えるならラジオ体操でいう「まずは大きく振って背伸びの運動〜」の段階の初歩にも満たないような私が、この噺を選んだのかは「若気の至り」というか無知ゆえの愚行なのでお許し頂きたいが、その「小言念仏」という噺をひたすらに稽古していた。

大体、夜23時くらいから深夜2時くらいまでの3時間、ひたすら「南無阿弥陀、南無阿弥陀、赤ん坊が這い出てきたよー!(お経を唱えていたら寝ていた赤ちゃんが起きて来た)という小言念仏のなかでも、お気に入りのフレーズを繰り返し繰り返し、稽古をしていた。

そんなことを一週間くらい繰り返しているとスタジオを使ってくれているミュージシャンが「夜中、一人でここにいて平気ですか?」と問うので「なんで?へっちゃらだよ」と答えると、
彼は深刻そうな顔で「いや、凄く言いづらいんですけど。。ここ出ますよ。」と言葉を続けた。

そんな事を突然言われた私は「え?やめてよー!!俺、ここに住んでんだよ!」と返すと。
彼は「すいません。。僕こういうの分かるんです。僕の家系、皆、霊感強くて。」などと続けた。

さらに、その彼が茶髪で瘦せ型で、如何にもミュージシャンという様な、女の子を泣かせていそうな風貌だったので、僕が「君が泣かせた女の子の生き霊なんじゃないのか?」と茶化すと、彼は勤続38年の銀行員の如き真面目な顔で「いやアレはこの世に非常に怨念を持っている死霊ですよ。」とキッパリと言い切り、挙句の果てに彼は「僕はオーラが見えます。」と言い放ち、頼んでもいないのに勝手に私のオーラを診断し始め「あなたは、ライブをやっている時は真っ赤なのに今は真っ青です。赤は何かに熱中する人のオーラの色で、青は冷静とかを表すので、ぐんまさんは自分以外の人や物事に全く興味がありませんね。」と軽い人格批判までされ、さらに「背中には、物凄く怖い顔をしたお地蔵さんが千体くらい、ぐんまさんに憑いていますよ。」とまで言われた私は「じゃあ、このスタジオに出るのは一体どんな霊なんだよ!見えるんだろ?」と聞くと「あのそれが。。聞こえるんです。いつもは霊が見えるのに声が聞こえるんです。」・・・聞こえる。。ここで私は、ある心当たりにぶつかった。私が「声ってどんなの?」と問うと彼は急に低い声になり、まずは小さい声で「聞こえるんです。。Bスタジオで22時から1時間半くらい演奏して、一息つくと。。聞こえるんです!」と二度目の「聞こえるんです!」で声を大きくしてきた。怪談噺をやり慣れているであろう人間の常套テクニックを使い、確実に僕を怖がらせようとしてくるではないか。そして彼は、また得意げな小声になり「その声って言うのが。。(充分間を空けて)」「お経なんです。。お坊さんのお経なんですよー!!」とここでボリュームをマックスにし、「お経なんですよー!!」の部分は声を若干震わせてきたではないか。この様に聞いてるこっちが恥ずかしくなる、心霊話テクニックをフルに使ってくれた彼の努力に免じて少しでも怖がってあげたかったが、そうは問屋が卸さない。

何故ならば、そう。
何を隠そう、そのお経の主は私だったのだから。。
そうとも知らず合コン等でやり尽くしたであろう彼の怪談噺の常套テクニックに、一切の驚きを見せない、声の主である私に向かって彼はさらに「お坊さんのお経ですよ!!しかも、お経の途中で赤ん坊が這い出して来た!とか叫ぶんですよ!!怖くないですかー?絶対、この世に未練を持った赤ん坊の霊が墓場から這い出してお坊さんもその赤ん坊の霊に呪い殺されて恨みを持ったんですよー!」と非力な我々「人間」という種族に許された想像力という力をふんだんに使い、独自なストーリーまで披露してくれた。更に彼は「もう深夜のスタジオは避けます!色んなバンドマンに言わないと。」とご丁寧にミュージシャン仲間にスタジオの怪奇現象を話し、営業妨害をする事を公表し、「ぐんまさんも気を付けて下さい」と言い残し、去って行った。


気をつけるも何もその声の主は僕だし。

これから噺家を目指すにあたり面白いと思って稽古していたフレーズを「この世に怨念を持ち墓場から這い出して来た赤ん坊に取り殺されたお坊さんの霊」だと言われた上に、勝手にオーラの色で人格を否定され、挙句に「立つ鳥跡を濁さず」という言葉があるが、大変お世話になったスタジオに霊が出るという噂を残してしまい、これから自分は本当に噺家としてやっていけるのだろうかなどの疑問は頭をよぎったが、あれから5年。。何とか無事に、この大都会、東京で暮らすことが出来たのは、私についた千体のお地蔵さんのお陰かもしれない。

おわり

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